ログイン私を虐げ、全てを奪い取ってきた彼らが、今、自分の最も誇っていたものを無惨に打ち砕かれ、這いつくばっている。理恩は支配の指先を凍りつかされ、父は暴力の象徴を折られ、継母は虚飾の城を腐食され、麻里亜は自らの美貌を泥と恐怖で汚し切っている。
だが、私の胸に湧き上がったのは、優越感でも、ざまぁみろという喜びでもなかった。
ただ、ひどく虚しかった。 こんなにも薄っぺらで、弱い人たちに、私は十九年間も縛り付けられ、怯えていたのか。 黎様が、再び視線を私へと戻す。 ジャリ、ジャリ。 硝子を踏む音と共に、黎様が私の目の前まで歩み寄ってきた。 シャンデリアの明滅が、黎様の顔を不規則に照らし出す。 至近距離で見る彼の顔は、いつもよりずっと青白く、そして、どこかひどく苦しそうだった。 黎様の視線が、私の雨に濡れて肌に張り付いた薄いルームウェアをなぞり、そして――。 私の鎖骨の下。 先ほど、麻里亜に無理やり胸ぐらを掴まれた際にできた、爪が深く食い込んだ赤い傷跡に、ピタ「図星でしょ! あんな、家を追い出されて化け物に拾われた泥棒猫のどこがいいのよ! あんな陰気な女より、私の方がずっと理恩の隣にふさわしいのに!」 ギャーギャーと叫ぶ麻里亜の顔は、嫉妬と劣等感で醜く歪んでいる。 自分の方が優れていると信じ込みたいがゆえの、ヒステリックな自己防衛。 この空っぽな女は、有栖川の血を引いているというただ一点の価値しかない。(お前より、あの地味な女の方が百倍マシだった) 喉まで出かかったその言葉を、唾液と共に飲み下す。 今ここでこの欠陥品を怒らせて有栖川との関係を悪化させるのは、得策ではない。「……車を停めろ」 運転席の運転手に向かって、低く命じた。 車が路肩に静かに停車する。「降りろ」「は……?」 麻里亜が、目を丸くして固まった。「今日はもう疲れた。君の相手をしている余裕はない。タクシーで帰れ」「な、何言ってるの!? こんな夜中に、私を一人で……」「降りろと言っている」 声のトーンを一段階落とし、一切の感情を排した視線を突き刺す。 その絶対的な拒絶の空気に、麻里亜はヒッと短く息を呑み、怯えたように口をつぐんだ。「……最低!」 バツンッ! とドアを乱暴に開け、ヒールを鳴らして外へと飛び出していく。 ドアが閉まり、ようやく車内に静寂が戻った。 運転手に合図を送り、車を再び発進させる。 窓を少しだけ開け、夜風を入れて車内の香水の匂いを追い出す。 ネクタイを乱暴に引き抜き、シートの横に放り投げた。 ズキズキと痛むこめかみを指で押さえながら、大きく、深く息を吐き出す。 限界だ。 あの機能を取り戻さなければ、俺の生活基盤は完全に崩壊する。 愛だの恋だのという、下らない感情ではない。これは純粋な、自己保存のための防衛本能だ。 胸ポケットに手を入れる。 指先が、冷たく硬いものに触れた。
会話が、うまく頭に入ってこない。 老社長が語る新規プロジェクトの展望も、契約の細かい数字も、すべてが水底で響くノイズのようにくぐもって聞こえる。 相槌を打つタイミングが、半拍遅れる。 愛想笑いの筋肉が、限界を告げてヒクヒクと痙攣し始める。「……理恩くん? どうかしましたかな。顔色が優れないようだが」「えっ? あ、いえ、何でもありません。少し、冷房が強いようで……」 額に浮いた冷や汗を、指先で素早く拭い取る。 隣では、麻里亜が「私は全然寒くないですよー?」と的外れな口を挟んでくる。 殺意すら湧き上がるほどの苛立ち。 テーブルの下で、膝の上に置いた両手をギリリと固く握りしめた。 このままでは、獅子王の看板に傷がつく。 完璧でなければならない。いかなる時も、冷静に、すべてをコントロール下に置くのが、次期当主としての絶対条件だ。 なのに、隣で喚くこの欠陥品のせいで、そして、あの優秀な環境調整機能を失ったせいで、すべてが崩れかけている。「ところで、例の三崎臨海再開発の件ですが」 老社長が盃を置き、穏やかな声で切り出した。ようやく本題に入ったのだと理解し、理恩は背筋を伸ばす。「ええ。白河中央再開発の件でしたら、弊社としても前向きに――」 言い終える前に、個室の空気がすっと冷えた。老社長の笑みが、薄い和紙のように音もなく剥がれ落ちる。「……白河ではありませんよ、理恩くん。三崎臨海です。前回の会合から、ずっとその話をしていたはずですが」 しまった、と気づいた時には遅かった。隣で麻里亜が「え、どっちでも似たような名前じゃないですか」と笑い、老社長の眉間に深い皺が刻まれる。「失礼しました。少し、資料の確認が混線しておりまして」 完璧な営業スマイルを貼り直そうとしたが、頬の筋肉が思うように動かない。獅子王の次期当主が、重要案件の名前を取り違えた。その事実が、畳の上に落ちた墨のように、じわじわと場を汚していく。 ◇ 長時間の拷問のよ
だが、その判断が、これほどまでに自身の生活の基盤を崩壊させるとは。(……馬鹿馬鹿しい。俺が、あの程度の女に依存していたというのか) デスクの上に両肘を突き、両手で顔を覆う。 愛情などではない。あんな自己主張のない、地味な女に恋愛感情など湧くはずがない。 あれはただの「便利な環境調整機能」だ。最高級の空気清浄機をうっかり捨ててしまったことで、都会の汚れた空気を直接吸い込み、体がアレルギー反応を起こしているだけだ。 そう、ただの機能の欠如。 ならば、その機能を取り戻せばいいだけのこと。 だが、頭に浮かぶのは、有栖川の屋敷の窓ガラスをすべて吹き飛ばした、あの巨大な漆黒の男の姿。 部屋の温度を一瞬で絶対零度まで引き下げるような、人知を超えた暴力の塊。 正面から挑んで、勝てる相手ではない。 こめかみの拍動が、さらにスピードを増した。 ◇ 夜の帳が下りた、銀座の高級料亭。 しっとりと水が打たれた石畳の入り口を抜け、案内された奥の個室。 畳のい草の匂いと、微かに漂う出汁の香りが、本来なら食欲を刺激するはずの空間。 しかし、その上品な和の香りは、隣に座る存在から絶え間なく放たれる強烈な異臭によって、完全に蹂躙されていた。「んー、このお刺身、すっごく新鮮! ねえ、写真撮ってもいいですか?」 甲高く、耳の奥を直接引っ掻くような声。 麻里亜が、鮮やかに盛り付けられた造りの皿にスマートフォンのレンズを向け、カシャッ、カシャッと無遠慮なシャッター音を連続して響かせる。 隣に座る取引先の老社長が、ピクリと眉をひそめたのが見えた。「麻里亜。食事の席だ。少し控えなさい」 声を低くして注意するが、麻里亜は悪びれる様子もなく、尖った真っ赤なアクリルネイルでスマートフォンの画面をタップし続ける。「だって、すごく綺麗なんだもん。すぐにストーリーに上げないと。……あ、フィルターこっちの方が美味しそうに見えるかな」 動くたびに、バニラとムスクの重たく甘ったるい香水が、
こめかみの奥で、重たく湿った鉛の塊が一定のリズムで内側から頭蓋骨を叩き続けている。 ズキン。ズキン。 眉間を右手の親指と人差し指で強く挟み込むように揉みほぐすが、鈍い痛みの芯は一向に引く気配を見せない。 獅子王グループ本社、最上階に位置する役員室。 防音ガラスで覆われた窓の向こうには、東京のビル群を白く飛ばすような初夏の日差しが降り注いでいる。だが、室内の空調は完璧に設定されているはずなのに、ワイシャツの背中には不快な汗がべったりと張り付いていた。 マホガニー調の重厚なデスクの上に広げられた決算報告書。そこに並ぶ細かい数字の列が、焦点が合わずにぐにゃりと波打って見える。 コンタクトレンズが乾いているわけではない。眼球の奥から、神経を直接ヤスリで削られているような疲労が視界を歪ませているのだ。 コン、コン。 控えめなノックの音と共に、分厚い扉が開いた。「失礼いたします。次回の取締役会の資料と、お茶をお持ちしました」 秘書の女性が、静かな足取りでデスクに近づいてくる。 書類の束が置かれるバサッという音。続いて、白い陶器のカップがソーサーに乗せられるカチャリという乾いた高い音。 そのわずかな金属音でさえ、今の過敏になった鼓膜には、ガラスを引っ掻くような鋭いノイズとして突き刺さる。 カップから立ち上る、深く焙煎されたコーヒーの匂い。普段なら頭をクリアにしてくれるはずのそのカフェインの香りが、今日は胃の底を直接かき回すような強烈な吐き気を誘発した。「……下げてくれ」 喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。 秘書の動きがピタリと止まる。「え……? ですが、いつもこのお時間は……」「匂いが鼻につくと言っているんだ。さっさと下げろ」 語気が荒くなるのを止められなかった。 秘書はビクッと肩を震わせ、慌ててカップをトレイに戻し、逃げるように役員室から退出していった。 扉が閉まる重い音を聞きながら、革張りのオフィスチェアに深く背中を預ける。
鍵。「それがないと、パイプは完全に繋がらない。逆に言えば、その鍵を見つけて壊さない限り、お姉さんの中に残ってる血筋の熱も、まだ有栖川の土地に引っ張られ続ける危険があるってこと」 対になるもの。 祖母が残したもの。 目を閉じると、白檀の線香の匂いと共に、一つの記憶が鮮明に蘇ってきた。 山奥の古い社で、祖母がいつも首から下げていた、重ったらしい銀のロケット。『瀬理亜、これはね、私たちを守るための大切な蓋なんだよ』 しわがれた手で撫でられた、そのロケットの表面。 そこには、母のブローチと全く同じ、すずらんの花の細工が施されていた。「……おばあ様の、ロケット」 目を開けて、テーブルの上に転がるブローチを見つめる。「おばあ様がいつも身につけていた、すずらんの模様が入った銀のロケットがあります。多分、それが対になる鍵です」「ビンゴかもね。で、それは今どこにあるの?」「……おばあ様が亡くなった後、遺品として有栖川の地下の『奈落』に、他の古い荷物と一緒に放り込まれたはずです」 その言葉に、銀髪の少女はパンッと軽く手を叩いた。「じゃあ、明日の目的地は有栖川の地下室で決定だね。お宝探しついでに、その薄気味悪いパイプの元栓も完全にぶっ壊してこようか」「お前は来るな。騒々しくて足手まといだ」「はあ!? 最初に地下の匂いに気づいたのは私なんですけど! 恩知らずのトカゲめ!」 ソファ越しにギャーギャーと再び言い争いを始める二人の姿を見ながら、テーブルの上の銀のブローチをそっと手に取った。 金属の冷たい感触が、指先から手のひらへと伝わってくる。 有栖川の家には、もう何の未練もなかった。あの冷たい地下室も、埃っぽい屋根裏部屋も、すべて捨ててきた過去だと思っていた。 でも、このまま見えないパイプに繋がれたまま逃げているだけでは、母の命を食い物にしたあの家と、本当の意味で縁を切ることはできないのだ。 隣で、深く息を吐き出す音が聞こえた。「…&hellip
ドクン、ドクンと、自分の心臓の音が耳障りなほど大きく響く。「……ッ」 不意に、隣から部屋の空気を焦がすような強烈な熱波が膨れ上がった。 バキッ、と。 大理石のローテーブルの脚に、細かいヒビが入る乾いた音が鳴る。 ソファに座っていた巨体が、無言のままゆっくりと立ち上がっていた。 分厚い胸板が、激しく上下している。シャツの胸元から覗く肌が、異常な高熱を帯びて赤黒く変色し始めていた。「……やはり、あの夜に屋敷ごと踏み潰しておくべきだった」 喉の奥で、巨大な岩盤が削れ合うような低い音が鳴る。 黄金の瞳孔が限界まで細まり、視線の先にはもうこの部屋の光景は映っていないようだった。ただ、有栖川の屋敷の人間たちを物理的に引き裂く光景だけを幻視している。「母親を食い潰し、娘まで同じように消費しようとしていたゴミ共だ。今すぐ、一匹残らずこの手で……」 太い腕がゆっくりと持ち上がり、拳が硬く握り込まれる。 その拳の表面に、人間の皮膚とは違う、硬質な黒い鱗が皮膚を突き破って浮かび上がりかけていた。 部屋の温度が跳ね上がり、呼吸をするだけで気管が焼けるように熱い。 だが、私はその燃え盛るような太い右腕を、両手でしっかりと掴んだ。「……だめです」 ピタリ、と。 握り込まれた拳の動きが、空中で止まった。「なぜ止める。あいつらは、お前の親の命を……」「わかっています」 腕から伝わってくる熱は、本当に火傷をしてしまいそうなほど高温だった。 それでも、手を離す気にはなれなかった。指の腹に力を込め、硬い筋肉の隆起を押さえつけるように握りしめる。「この手を、あんな人たちのために使いたくありません」 ゆっくりと、言葉を紡ぐ。「私の母を燃料にして太った人たちを、わざわざ綺麗に掃除してあげる必要なんてないんです。……それに」 息を一つ吸い込み、
口の中に広がった強烈なチョコレートの甘さとナッツの脂質が、干からびた脳髄に直接雷を落としたかのような衝撃を与えた。 美味しい。ただの市販のお菓子なのに、人生で食べたどんな高級料理よりも、圧倒的に美味しく感じられた。 「……んっ、ひぐっ……」 咀嚼しながら、不意に視界が滲んだ。 ポロポロと、大粒の涙が膝の上にこぼれ落ちる。 お父様に打たれた時も、理恩に婚約破棄を突きつけられた時も、地下室に閉じ込められた時も、決して泣かないと決めていたのに。 この恐ろしい化け物の不器用な施しが、張り詰めていた心の糸をプツンと切ってしまっ
買い物を終え、重厚な紙袋を手渡された後、二人はブティックを出て再び通りへと戻った。 麻里亜の手には、ブランドのロゴが大きくプリントされた紙袋が握られている。理恩にもいくつかの荷物を持たせ、彼女は満足げに足取りを弾ませていた。 「少し、どこかで休憩しないか」 視界の端がチカチカと点滅し始めたのを感じ、理恩は立ち止まって提案した。 首の付け根に張り付くような重さが、いよいよ背中全体へと広がってきている。まるで、見えない泥の塊を背負わされているような、息苦しい感覚だった。 「いいですね。じゃあ、あそこのカフェに行きましょう。あそこのテラ
路地裏のどん詰まりには、錆びついた分厚い鉄の扉があった。 看板も何もない。ただ、扉の隙間から、ひどく淀んだタバコの煙の匂いと、微かな機械の駆動音が漏れ聞こえてくる。 黎はノックなどしなかった。 空いた方の手で扉の取っ手を無造作に掴むと、ミシッ、という不吉な金属音とともに、鍵のかかった鉄扉を力任せに引き開けたのだ。蝶番が悲鳴を上げ、歪んだ金属片がパラパラと足元にこぼれ落ちる。 「……なんだテメェ!」 扉の奥から、怒声が飛んできた。 そこは、薄暗い蛍光灯に照らされた地下駐車場の跡地のような空間だった。無造作に置かれた折りたたみ机には、ノートパソコンと札束の山。その周囲を、安
「もうすぐ焼けますよ。お皿を出してもらってもいいですか? そこの上の棚に入っているはずです」 私が自然に指示を出すと、黎は文句を言うこともなく、無言で長い腕を伸ばして戸棚を開けた。真っ白な陶器のプレートを二枚、大理石のカウンターの上にコトンと置く。 その素直な動作がなんだか可笑しくて、私は再び笑みを噛み殺しながら、ベーコンと目玉焼きをお皿の上へと滑らせた。 広いダイニングテーブルの向かい合わせの席に、二つのプレートが並べられた。 黎は椅子に深く腰を下ろし、備え付けられていたシルバーのフォークを手に取る。 だが、その様子もまた、ひ